
この前のブログで私は
「意味を探し続けるのをやめて、日常に戻ること」
について書いた。
特別な体験を追いかけるのではなく、
皿洗いやコーヒーの味といった
**「今ここ」**の感覚に意識を戻すことが
私にとっての静かな覚醒だと書いた。
その延長で、最近の私は
偶発する出来事を追いかけるでもなく
意図的に意味づけするでもなく
ただ静かに見ている時間が増えている。
そして今朝――
起きた瞬間、枕元のサイドテーブルに
大きな蜘蛛がいた。
思わず声が出るほどびっくりした。
これは、誰かが仕組んだわけでも
私が探していたわけでもない、
ただそこにあった出来事。
一瞬
「あ、縁起がいいって言うよね」
なんて言い回しが浮かんだけれど、
それを“意味づけ”と一緒くたにしてしまうと
本来その出来事が持っていた鮮烈さが薄れてしまう気がした。
スピリチュアルの本質と、追い求める構造の違い
私はスピリチュアルを否定したいわけじゃない。
むしろ好きだし、信じている。
ただ、これまでのように
「答えを探す」「サインを追いかける」
という方法ではなく、
現実そのものがメッセージとして現れる
という感覚があり、それが今は濃く、はっきりと届く。
たとえば、以前は
エンジェルナンバーを見つけたり
カードリーディングをしたり
象徴を追いかけたりしていた。
それ自体は悪いことではない。
でも気づけば、
新月の願い事やセッション、アチューンメント、講座、商品…
意味づけを“買う”仕組みが当たり前になっていた。
それは
スピリチュアルを基盤にしたビジネスの一形態であって
本来の体験そのものではない。
私自身、オラクルカードを購入したことから始めた。
でも、購入するという行為自体も
意味づけを探しにいっていた構造のひとつだった。
離れるのではなく、戻るという感覚
だから今の私は
スピリチュアルを
「終わらせる」「手放す」
という言い方はしない。
むしろ
生活の中へ、静かに溶け込んでいく
という感覚。
神が何かをしたわけではない。
「罰が当たった」「守られた」という説明も
私が内側で意味づけしているだけのこと。
助けを感じたのも、見放されたと感じたのも
全部、自分の感受性がそう捉えただけ。
でも今は、
追い求めるのではなく
受け取ることができる。
自然に、ありのままに。
蜘蛛の朝の驚きは、静かなメッセージ
今朝の蜘蛛は、ただそこにいた。
そして私は声を上げた。
それは
「意味があるかどうか」を探す前に
現実がそのまま強く現れた瞬間だった。
追い求めるスピリチュアルから
離れるのではなく、
感度を研ぎ澄ませて
“ただ在る今”を受け取ること。
それは
かつてのように見えないものを追いかけるのでも
物語を増やすのでもなく、
日常の一瞬一瞬のリアルに
心が触れられるということ。
結び
意味づけをやめても
スピリチュアルは消えない。
むしろ、
今、ここに現れる出来事として
よりはっきりと届くようになる。
それを
淡く流さず、
静かに感じ取れるようになった自分がいる。
それが
私にとっての「覚醒」でも
「次元の上昇」でもなく、
日常そのものの豊かさとして続いている。
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自分にコードをつなげよう
My rhythm, my light
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