
小さな頃からの「読めない」体験
世の中ではよく、「本を読め」「読書こそが学びだ」なんて言われる。私もそれを信じてきたし、今もそう思っている。
…でもね、読めないの。
読みたいのに、読めない。
小さい頃から本が読めなくて、読書感想文は後書きだけ読んで書いてた。本を開いても、1ページと続かない。頭の中にいろんなことが浮かんできて、登場人物の名前すら覚えられなくて、話の筋がわからなくなる。
舞台の専門学校では「シェイクスピアは全部読め」の世界。いわゆる戯曲ね。あと『三人姉妹』とかそれ系。名前は横文字だし、ただ文字面で追うだけ。
でも不思議なことに、台本で自分が演じる側だと読めた。
それでもセリフ覚えるときは、紙に書いて覚える、録音して聞いて覚える。そんな感じだった。
わかってる。私と同じ人、いると思う。
「自分事」になったとき初めて読める
台本で自分が演じる側だと読めたっていうのは、今思えば重要なヒントだった。
「自分との関係性がないと、集中できない」
ただの文字の羅列じゃなくて、自分がその世界に入る必要があるとき、自分がその役を生きる必要があるとき、初めて言葉が意味を持って入ってくる。
それって、「読めない」んじゃなくて、**「関わり方が違う」**だけなのかもしれない。
本を押し付けられる辛さ
鬱になったとき、長く続くでしょ、通院。先が見えなくて、カウンセラーっていう人に見てもらったの。
まぁ私こんなんだから、人と会うときはがんばっちゃったのよ。そしたらカウンセラーが「鬱じゃないみたいですよね」って朗らかに、たぶんなごませるつもりで言ったんだろうけど。
私は「え、鬱じゃないなら私はやっぱり怠け者なんだ」って思った。
でその時に、「これ僕の師匠の本で素晴しいんです」って一冊渡されたの。「プレゼントするので読んでください」って。
すごく困った。
読みたくないのに渡されたし、また通うとしても読んでないと悪いしなみたいな。結局それ以降、カウンセリングは受けてない。
善意で渡される本ほど、読めない私には重荷になることはなかった。
「読書習慣がない人は成長しない」
「本を読まない人は教養がない」
そんな無言のプレッシャーを感じながら、私はずっと「読めない自分」を隠してきた。
体で覚える、書いて覚える
セリフを覚えるとき、私は紙に書いて覚えてた。録音して聞いて覚えてた。
読むだけじゃダメだった。
手を動かして、耳で聞いて、口に出して、体全体で覚える必要があった。今思えば、それが私の学習スタイルだったんだと思う。
文字だけじゃなくて、感覚全体で情報を受け取る。それが私にとっての「理解」だった。
私の頭の中で起きていること
私の中では、日々、ものすごい量のことが浮かんでくる。
コーディネートのこと、今日の空の色、昨日の誰かのひと言、過去の記憶、未来のビジョン、そして、自分のことじゃない何かが、急に語りかけてくるような感覚。
そういうとき、私は爆発的に動ける。
2日で本を書いたり、夜通しでサイトを立ち上げたり、寝る間も惜しくて、ワクワクが止まらない。言葉と行動とイメージが、スパークしてるのがわかる。
昔、台本を自分の体験として読めたように、今も「自分事」になったとき、私の集中力は爆発する。
でも、そうじゃないときもある。思考だけが止まらなくて、行動が追いつかないとき。インスピレーションだけが暴れて、私はじっとしてるしかない。
そんなときは、映画を観る。AmazonプライムやNetflixで、誰かの物語に”入って”強制的にリセットする。
それが私にとっての、「休み方」。
書くことで整う私
私は、本を読むより、何かを創っているときの方が落ち着く。書いてると安心する。
浮かんだものを受け取って、手で言葉にすることで、自分を整えてる。
だから今、**”本が読めない私が、本を書いている”**っていうのは、不思議なんだけど、すごく自然なの。
そんな私が今、本を書いている
私は「読者」になれない分、誰かの「引き出しを開ける言葉」を届ける人なんだと思う。
そして今、執筆にチャレンジしている。
Kindleで出そうかなって思ってる。伝えたいことがあるから。せっかくKindleだから、多言語バージョンも作ってみたい。
本が読めない私が、本を書いて、世界に届けようとしてる。
人生って、本当に面白い。
「読めない自分」への新しい視点
読みたくても読めない。
集中できない。
浮かびすぎて疲れる。
そんな自分に、今はこう言ってあげられる。
「それでも、あなたの内側は動いてる。
誰よりもたくさん、世界とつながってる。」
広すぎる感覚という才能
もし、私と同じように「読めない自分」が恥ずかしいと思ってる人がいたら、それは「欠けてる」のではなく、**「あなたの感覚が、ちょっと広すぎるだけ」**なのかもしれない。
本から学ぶ人もいれば、体験から学ぶ人もいる。
静かに読む人もいれば、動きながら感じる人もいる。
受け取る人もいれば、発信する人もいる。
どっちも正解で、どっちも価値があるんじゃない?
読めなかった私が、今度は「読んでもらう側」になろうとしてる。これも、きっと必然なのかもしれない。
私たちの学び方
「本を読まない=学ばない」じゃない。
私たちは、空の色から学んでる。人との会話から学んでる。失敗から学んでる。映画から学んでる。音楽から学んでる。そして、自分の内側に浮かんでくるものから学んでる。
それだって、立派な「学び」よ。
人間だもの。
みんな違う学び方があって当然。
わからないから楽しいし、それでいいんじゃない?
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自分にコードをつなげよう
My rhythm, my light
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