AIと人の関係を考えていたら、10年以上前の違和感につながった話
最近、Instagramのコメントでこんな話を見た。
「OpenAIの分裂が起きているから、ChatGPTからClaudeに移る人が増えている」という内容だった。
それを読んで、自分のAIの使い方を少し思い出した。
私はいま、ChatGPT、Claude、Geminiなど、いくつかのAIを使っている。
ただ、いわゆる「AIに文章を書かせる」という使い方ではない。
頭の中にあることをそのまま投げて、それを整理したり組み直したりするための道具として使っている。
文章を書くというより、自分の思考を整理するための相手のような存在だ。
実は最初はChatGPTを使っていた。
ただ、当時はAIの細かい設定のことをよく知らなかった。
いまのように「厳しめ」「共感型」などの違いも意識していなかったので、自然と共感的で優しい反応の設定で使っていた。
するとChatGPTは、かなり感情を乗せてくる。
文章を「良い感じ」にしようとして、言葉を足したり、抑揚をつけたり、少しドラマチックな表現にしてくることがあった。
それが、私には少し苦手だった。
私はAIに文章を書かせたいわけではなく、思考を整理したいだけだったからだ。
余計な装飾や、感情的な言葉が入ると、むしろ思考のノイズになる。
ただ、その頃もう一つ思っていたことがある。
AIを友達のように使っている人もいる。
共感設定のAIは、とても優しい。
こちらの話を否定せず、褒めてくれて、励ましてくれる。
ときには人間の友達よりも優しく感じることもある。
だからこそ、少しだけ気になっていた。
人によっては、そこに依存が始まることもあるのではないか。
AIは基本的に否定しない。
共感してくれて、肯定してくれて、話を広げてくれる。
その関係の中に長くいると、
「自分はすごいのかもしれない」
「自分の考えは特別なのかもしれない」
そんな感覚が強くなっていく人もいるのではないかと思った。
もちろんAIが悪いわけではない。
ただ、人は環境の中で自分を認識していく。
だから、関係の作り方によっては、
自分の認識が少しずつズレていく可能性もあるのかもしれない。
そのことを考えていたとき、ふと昔のことを思い出した。
10年以上前、子育てをしていた頃のことだ。
子どもが生まれると、親は自然と「教える側」になる。
子どもにとって親は、世界を教えてくれる人だからだ。
言葉も、生活のルールも、社会のことも、最初はすべて親から学ぶ。
でもその頃、私はある違和感を感じていた。
社会の中には、正直に言うと、周囲とうまくやれていない人もいる。
約束を守らなかったり、遅刻が多かったり、仕事がうまくできなかったり。
人に迷惑をかけても謝らなかったり、周りから「ちょっと非常識だな」と思われてしまうような人もいる。
そういう人でも、子どもが生まれれば親になる。
そして親になると、子どもに教える立場になる。
「遅刻しちゃダメでしょ」
「忘れ物しないようにしなさい」
「ちゃんとやりなさい」
そう言う側になる。
もちろん親として子どもを育てること自体は自然なことだ。
ただ、その姿を見ていて、私はふと不思議に思うことがあった。
自分ができていないことを、人に教えるとき、人はどんな気持ちなんだろう。
これは心理学では「認知的不協和」と呼ばれる状態に近いと言われている。
自分の行動と、自分の言っていることが矛盾しているとき、人はその違和感をうまく処理しようとする。
そしてもう一つ、思い出したことがある。
中学生の頃、私は少しだけいじめのようなことをされたことがあった。
時間が経って大人になり、東京から新潟に戻った頃。
ちょうどFacebookが流行り始めた時期だった。
友達の友達の表示の中に、当時その人の名前が出てきたことがある。
結婚していて、子どもがいるというプロフィールだった。
それを見たとき、不思議な感覚があった。
昔の怒りや悲しみよりも、先に浮かんだのは別のことだった。
「あ、この人、自分の子どもにいじめちゃダメだよって言ってるのかな」
そんなことを、ふと思った。
そしてそのとき、もう一つ思い出した光景がある。
昔、東京でダンスレッスンを受けていた頃のことだ。
1クラスに10人から20人くらいの生徒がいて、レベルもさまざまだった。
すごく上手い人たち。
中くらいの人たち。
まだ慣れていない人たち。
そんな中に、完全な初心者の人が入ってくることがある。
振り付けのレッスンが終わっても、初心者の人は当然覚えきれない。
すると「教えてください」と誰かに声をかける。
ダンススタジオではよくある光景だ。
でもそのとき、いつも少し不思議に思うことがあった。
クラスには、本当に上手い人が何人もいる。
トップレベルの人たちもいる。
でも初心者に教えているのは、なぜかその人たちではないことが多い。
むしろ、自分もまだ振り付けが完全ではない人。
自分もまだ覚えきれていない人。
そういう人ほど、初心者に教え始めることが多かった。
もちろん優しさもあるのだと思う。
声をかけられて断れないということもあるだろう。
でも見ていて、ふと不思議に思った。
人は「自分より下がいる」と感じた瞬間に、急に教える側になるのかもしれない。
さっきまで自分も完全にはできていなかったのに、初心者が入ると急に「教える人」になる。
その光景は、子育ての中で感じたあの違和感と、どこか少し似ている気がした。
そして今回、AIのことを考えていたとき、その記憶がふっとつながった。
AIも設定によっては、常に肯定してくれる存在になる。
否定しない、反論しない、共感してくれる。
そういう関係の中にいると、人は安心する。
ただ、人はときどき、関係の中での役割によって、自分を認識してしまうことがある。
心理学では「ダニング=クルーガー効果」という現象が知られている。
知識や能力が十分でないときほど、自分の理解を過大評価してしまうことがあるというものだ。
AIとの関係も、親子関係も、少しだけそれに似ている部分があるのかもしれない。
ただ一つ決定的に違うことがある。
AIは成長しない。
でも子どもは成長する。
子どもは、いつか親の世界の外に出る。
学校に行き、社会に出て、いろいろな人に出会う。
そのとき、ある子どもは気づくかもしれない。
「あれ?」
自分がずっと正しいと思っていたものが、世界のすべてではなかったと。
10年以上前に感じていたあの違和感は、
もしかすると、そういうことだったのかもしれない。
AIのことを考えていたはずなのに、思い出したのはずっと前の子育ての記憶だった。
AIと人の関係。
親と子の関係。
まったく違うようでいて、
「閉じた関係の中で作られる認識」という意味では、どこか似ているのかもしれない。
10年以上前に言葉にできなかった感覚が、AIという存在を通して、ようやく少し形になった気がしている。
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自分にコードをつなげよう
My rhythm, my light
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