ずっと「どこでも仕事ができたらいいな」と思っていた
少し前から私は、スマホやタブレットだけ持って、どこでも仕事ができるようになったらいいなと思っていました。
そのとき私が思い描いていたのは、たぶんもっと分かりやすい「自由」だったと思います。
好きなところへ旅をして、そこで動画を撮って、スマホで編集して、場所に縛られずに仕事をする。
いわゆるノマド的な働き方。
そんな景色をなんとなく思い浮かべながら、「スマホひとつでどこでも仕事ができたらいいな」と思っていました。
ところが最近、ふと気づきました。
あれ? 私、もうそれやってるじゃん。
ただし、思い描いていた景色とはちょっと違いました。
思っていた景色とは違ったけれど、叶っていた
この前、一人で長岡方面へドライブに行ったときも、途中で寄った道の駅で普通に作業をしていました。
サイトの構成を考えたり、コードを確認したり、思いついたことを書いたり、記事を作ったり。
スマホとタブレットがあれば、かなりのことができます。
父を病院へ連れて行ったときもそう。
兄の病院へ運転手として行ったときも、この前は混んでいて2、3時間待ちました。
以前だったら、その時間はただの「待つ時間」でした。
何もできない。
自分の時間を取られてしまった。
今日は父の病院。明日は兄の用事。その次はまた別の家族の予定。
こんなに平日の予定が細切れに入ったら、普通の仕事なんてできないじゃん。
そんなふうに思うこともありました。
でも今は、病院で2時間待つことになっても、その2時間で自分の仕事ができる。
以前は「奪われている」と感じていた時間が、普通に自分の時間になっていました。
家族の用事がなくなったわけではありません。
生活そのものも、それほど変わっていません。
変わったのは、私の仕事の方でした。
私が自分の生活に合わせられる仕事を、いつの間にか作っていた。
昔思い描いていた「旅をしながらスマホひとつで仕事」とはちょっと違う。
病院の待合だったり、道の駅だったりする。
思ってたのと違うんだけど(笑)、でも、叶ってる。
どこでも仕事ができるということは、どこでも仕事をしてしまえるということだった
そして今、私は9 SENSE CORDという新しいものを作っています。
8月にひらめいてから、ずっと頭がフル稼働です。
一つ作ると、そこからまた一つつながる。
サイトを作って、実際に動かして、コードを入れて、確認して、また変えて。
記事を書いている途中に別のことを思いついたり、何かを作っている途中で「あ、これもつながる」と気づいたり。
しかもスマホがあるから、思いついた瞬間に開けてしまう。
メモだけじゃなく、短い作業ならその場で処理できてしまいます。
楽しいから、止まらない。
たぶん今の私、放っておいたら本当にずっとやっています。
ご飯も食べずに、眠る時間になっても頭が冴えて、ずっと考えて、ずっと作っていると思う。
そこで出てくるのが、毎日の生活です。
「あ、兄を送る時間だ」
どれだけいいところでも、一旦やめなきゃいけない。
車に乗って、送って、また家へ帰ってくる。
往復しても30分もかからないくらい。
以前だったら、その時間を「作業を中断させられる時間」と感じることもありました。
でもこの前、兄を送った帰りに車を運転しながら、突然思ったんです。
「ああ、私、この生活で良かったな」
私を止めてくれる時間だった
自分でもちょっと意外でした。
兄を送る時間も、父を病院へ連れて行くことも、家族の予定に合わせなければいけないことも、なくなったわけではありません。
「私の休みっていつなのよ」と思ったことだって何度もあります。
もっと自由に何日も旅行へ行きたいと思ったこともある。
それも全部、本当に私が感じてきたことです。
だから、今になって「あのときの私は間違っていました」とは思いません。
そのときの私は、そのときの自分で感じて、考えて、選んで、生きていた。
ただ今、もう一つ別の見え方が増えました。
これがなかったら、私、止まらなかったんだ。
どこでも仕事ができるようになったからこそ、運転しているこの20分、30分が、強制的に画面から離れる時間になっていました。
以前は自分の自由を区切っていると思っていた時間が、今は私を休ませてくれる時間にもなっている。
そう思ったら、なんだかすごくホッとしました。
そして、
「ここで良かったな」
と思いました。
この家にいることも。
子どもたちの母親であることも。
家族との予定があることも。
そして、その中で一人の人間として今ここで生きていることも。
これが「ありがとう」なのかもしれない
あとから考えていて、また不思議になりました。
たぶんこれが、世の中で「ありがとう」とか「感謝」と呼ばれている領域の一つなんだと思います。
でも、私が今まで思っていた「ありがとう」とは少し違いました。
もっと「ありがたい!」と感じるものなのかと思っていたし、感謝って、もう少し感情が大きく動くものだと思っていました。
でも今回は違った。
ものすごく静かでした。
誰かにありがとうと言いたくなったというより、ただ自分の中で、
「ここで良かったな」
と思った。
思い描いていた「感謝」の感じとは違う。
でも確かに、私は今「ありがとう」とか「感謝」と呼ばれる領域の中にいる。
そんな感じでした。
自由も、幸せも、ありがとうも
最近の私は、今まで当たり前だと思っていたことに「そもそも、なんで?」と思うことが増えました。
周波数について調べているときもそう。
新月に願い事を書くということについて考えたときもそう。
「そういうものだから」と受け入れていたことの原点が、急に気になるようになりました。
そして今回、それが「自由」とか「幸せ」とか「ありがとう」とか「感謝」という、もっと身近な言葉にまで向いたんだと思います。
私たちは、たくさんの情報を見ながら生きています。
「自由な生き方」と聞けば、誰かが旅をしながらパソコンひとつで働いている姿を見る。
「幸せ」と聞けば、誰かの幸せそうな暮らしを見る。
「感謝」と聞けば、誰かが語る「ありがとう」に触れる。
それも、その人にとっては本当の自由で、本当の幸せで、本当のありがとうなんだと思います。
でも、それをたくさん見ているうちに、いつの間にか「こういうものが自由なんだ」「こういう感覚が感謝なんだ」と、自分の中にも完成したイメージができていたのかもしれません。
でも自由も、幸せも、ありがとうも、本当は一人ひとり違うはずです。
同じ言葉だからといって、同じ景色でも、同じ感覚でもない。
自分の「ありがとう」は、自分の中にちゃんとある
私はスピリチュアルが好きだけれど、実はネットでスピリチュアルの情報をそれほど見ません。
オラクルカードリーディングをしている今も、他の人のリーディング動画はあまり見ません。
昔からそうでした。
知らないうちに誰かの言葉や読み方に影響されて、自分から出てきたものなのか分からなくなるのが嫌だったから。
今になって考えると、私はずっと、
自分から何かが出てきたときに、「これは私が感じたことだ」と自分で分かっていたかったんだと思います。
誰かの言葉がきっかけになることもある。
誰かとの出会いで考え方が変わることもある。
それももちろんあります。
でも、自分の中から自然に出てきたものまで、外側の誰かのおかげにしなくてもいい。
スピリチュアルの中では「感謝すること」や「ありがとう」が大切だと言われることも多いけれど、私は今回、無理に感謝するものを探さなくてもいいのかもしれないと思いました。
普通に自分の生活を生きていたら、ある日、自分の中から勝手に出てくる「ありがとう」もある。
今回の「ここで良かったな」は、誰かに感謝しなさいと言われて出てきたものではありませんでした。
感謝できるものを探していたわけでもありません。
普通に兄を送って、普通に家へ帰っていただけ。
その途中で、自分から出てきた。
だからこそ、すごく自分のものだったんだと思います。
思っていたのと違う。でも、ちゃんとそこにいた
スマホひとつでどこでも仕事がしたいと思っていた。
想像していたのは、旅先で自由に仕事をしている自分でした。
実際にやっていたのは、病院の待ち時間だったり、道の駅だったりした。
思っていたのと違う。
でも私はもう、「どこでも仕事ができる」という場所にちゃんといました。
そして今回、「ありがとう」や「感謝」も同じでした。
自分が想像していた感謝とは違った。
もっと静かで、もっと普通で、ただ「ここで良かったな」と思っただけだった。
でも私はたぶん、ちゃんとその領域にいた。
思っていたのと違う。でも、ちゃんとそこにいた。
もしかしたら自由も、幸せも、ありがとうも、言葉として知っていることと、自分が実際にそこへ行ったときに見える景色は同じとは限らないのかもしれません。
そして、自分が実際に感じたものは、自分でちゃんと受け取っていい。
今の私は、何か新しい答えを外に探しているというより、今まで知っているつもりだったものを、一つずつ自分の感覚で確かめ直している途中なのかもしれません。
その途中で今日、また一つ。
「私、ここで良かったな」
という、自分の言葉が増えました。
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自分にコードをつなげよう
My rhythm, my light
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