晴れの日だけで生きていける?
晴れの日は気持ちがいい。洗濯物も乾くし、出かけたくもなる。でも、雨が降らなかったら困る。植物は育たないし、お米もできない。川も干上がってしまう。
だから私たちは、晴れの日を喜びながらも、雨の日の必要性も知っている。
だったら、人の感情も同じなんじゃないかと思って。
嬉しい、楽しい、好き。そんな感情は歓迎されやすい。
でも、嫌だ、苦手だ、近づきたくない。そんな感情になると途端に、それはミラーリングです、あなたの課題です、あなたが引き寄せています、という話になることがある。
私はそれを聞くたびに不思議になる。人間に最初から備わっている感情なのに、どうしてそれだけ問題扱いされるんだろう。
その感情は誰のもの?
誰かを苦手だと思う。嫌だと思う。
それは私の心や身体の中で起きていることで、他人には見えない。ましてや、その感情がどこから来ているのかなんて本人にだってわからないことがある。
それなのに、それはこういう意味です、本当はあなた自身を見ています、そこに学びがあります、と断定されることに、ずっと違和感があった。
もちろん、その考え方が合う人もいると思う。
でも私は、嫌だと思ったという事実が先にあると思っている。
私が悪い話でも、相手が悪い話でもない
誤解してほしくないのは、相手が悪いと言いたいわけじゃないということ。
でも同時に、自分が悪いとも思っていない。
不思議なのは、こういう話になると、なぜか私が反省する流れになりやすいこと。あなたに課題があります、まだ向き合えていません、そこを乗り越えましょう、そう言われると、まるで嫌だと思った私に問題があるような気持ちになる。
もし同じことで何年も苦しんでいるなら、その考え方が役に立つこともあるのかもしれない。
でも、そうじゃないこともある。
ただ苦手だった。ただ距離を置いた。それだけのこともある。
嫌悪感は自分を守るためのサイン
最近、嫌悪感や苦手意識は、自分を守るためのサインなんじゃないかと思っている。
熱い鍋を触ったら手を引っ込める。煙が充満していたら外へ出る。それと同じように、この人といると疲れる、この場所はしんどい、この発信は見たくない、という感覚も、少し距離を置いた方がいいよという身体や心からのサインなのかもしれない。
嫌だと思った。苦手だと思った。だったら少し距離を置けばいい。
相手を攻撃する必要もないし、相手が悪いと決めつける必要もない。自分を責め続ける必要もない。
雨の日があるから育つものもある
晴れの日だけでは植物は育たない。雨の日があるから育つ。
人も同じなんじゃないかと思って。
嬉しい、楽しい、好き。そういう感情だけじゃなくて、嫌だ、苦手だ、近づきたくない。そんな感情も含めて、自分という人間を育てているのかもしれない。
だから最近、嫌悪感をなくそうとは思わなくなった。その感情が出た理由を延々と探し続けるよりも、ああ、私はそう感じたんだな、と受け取る。そして必要なら距離を置く。
人間には晴れの日もあれば雨の日もある。
私はどちらも大切な感情だと思っています。
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自分にコードをつなげよう
My rhythm, my light
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